東京レインボープライドは、「政治的」でないのか?  

このブログを開設したきっかけは、もともと「地域は異なれどジェンダーセクシュアリティを専門にしている、博士課程という高等教育を受けた学生が、自分の考えや知識を社会的に発信しないことが許されるのだろうか」という自分自身への疑義からであった。そして、この出発点は、今回の記事にもつながる話だろうと考えている。

 

しかし2か月ほど前にこのアカウントを作ったはいいものの、その後、怠惰から一度もブログを更新していなかったが、遂に重い筆を取る気になった。それが、今回の東京レインボープライドで起きた「安倍やめろ」や「天皇制反対」のプラカードをめぐる一件である。僕の知る限りでは、「安倍やめろ」のプラカードが写り込んだ写真が、東京レインボープライドの公式ツイッターで拡散されることとなり、多くの人の目に映ることになったという経緯である。

(毎年東京レインボープライドには参加しているものの、今回海外におり参加できなかったので、僕の知らないところで議論が展開していたのかもしれないし、ツイッター及びにちゃんねる(?)での一連のやり取りも限定的にしか分からないので、もし知らない事実があった場合は、指摘していただきたい。)

 

そして、今回ブログを書くことにした理由は、この写真に対する反応が、僕の認識とは大きく異なる形で広がっていることに筆舌に尽しがたい違和感を覚えたからである。

特に、

LGBTパレードは性的マイノリティーが置かれている現状の理解や差別に反対するパレードです。「天皇制反対」や「安倍やめろ」は他のデモでやって下さい。 LGBTパレードではして欲しくありません。大の大人なんですから考えて下さい。」

という趣旨のツイートや、

「レインボーパレードはお祭りだ。GAYに生まれてきたけど、人生楽しんでるよ!と楽しく明るくアピールする場だ。それを左翼の奴らが差別反対のカード掲げてパレードを政治利用し陰湿にしている。勘弁してくれマジ。」

という趣旨のツイートが多くリツイートされていることに驚き、中でもパレードを「政治利用」するという表現が、どうしても理解できなかったのである。

これらの反応を受けて、一つの問いを立ち上げ、一人の学生として考察してゆきたい。

 

・東京レインボープライドは、「政治的」ではないのか?

 

前述のツイートは、「政治利用する」ことを批判する内容であるということから、「政治的でないパレード」が前提されているようである。一体東京レインボープライドというイベントは、政治利用されずにいることが可能なのだろうか。

 

 

 

【プライドの歴史と政治性】

これらのツイートは、「今までのプライドはお祭りであり、政治的主張をもたないものであった。だからこそ、非政治的なお祭りに対して政治を持ち込むのは容認できない」という前提に立っている。

しかし、少なくともプライドの歴史を知る学生にとっては、このロジックの流れは非常に疑わしいものに見える。

今や世界各地で行われるようになったプライド・パレードというイベントは、1969年のニュー・ヨークのストーンウォール事件が発端となっている。ストーンウォール事件は、ニュー・ヨークのストーンウォール・インという同性愛者やドラァグ・クィーンが多く集まるバーに対し、警察が酒類販売許可の取り締まりを名目にガサ入れに入ったときに、その場にいた多くの同性愛者やドラァグ・クィーンが籠城し、抵抗した、という事件である。この事件は「初めて」同性愛者らが行政を相手に大々的に闘った画期的な事件として認識されている。翌年の1970年にこの事件を記念・哀悼する目的で行われたデモ行進が、現在のプライド・パレードの前身となり、今では、「性的少数者の差別と偏見を解消する」という非常に政治的な主張を持ったデモ行進になっている。

この歴史を考慮する限り、プライド・パレードというのは、そもそも非常に政治的で局地的なデモ行進であったものが、米国の国家的・経済的な影響力の大きさゆえに世界各地に拡散した運動であるということがわかる。その歴史性を考えた時に、「東京レインボープライドだけがその例外であり、政治的なイベントでない」と捉えるのは、むしろ不自然なのではないだろうか。そう考えるなら、「プライドは政治的なものではなかった」というはじめの前提は、覆ることになる。

 

では、もともと非常に政治的なイベントであるプライドを東京でも行う、というときに、東京レインボープライドは、どのように対処してきたのだろうか。東京レインボープライドは、そうした政治性を意図的に打ち出さず、そう見えないようにすることで、多くの人を巻き込むという戦略をとってきたのである。実際にパレードの運営は警察への届け出に関しても現在の「デモ」としての届け出ではなく、将来的に「お祭り」にすることが目標であると語っていることから、今日一般の参加者に「そう見えない」ことは、ごく自然なことのようにも感じる。その戦略の是非については、学生一個人の判断の域を超えていると考え、ここでは控えたい。

 

【「政治的ではない」というコト…?】

プライドというイベントが、そもそも歴史的に見て政治的な主張を持ったイベントであるということは、以上の通り説明したつもりである。しかし、この一件は、そもそも、政治的でないイベント、もっと言えば政治的でない行為は存在するのだろうか、という問いをも想起させる。

これは、社会科学を学ぶ人間の間ではおそらく当然の前提として共有されていることだと認識しているが、「差別を含むあらゆる権力(ここでは政治性と言ってもいい)は、主体の意思とは関係のないところにおいても働く」ということが深く影響している。

これは、セクシュアル・ハラスメントの文脈において、加害者側が「そのつもりはなかった」と言ったところで免罪されないのと同じであり、もっとわかりやすく言えば、卑近な例だが、いじめの構造を例にとって話すとわかりやすいかもしれない。いじめという人権侵害が行われている最中に、いじめの加害者、いじめの被害者の他に、いじめを傍観している人間は、中立的に機能しないだけではなく、この権力関係の一部に既に組み込まれていると考えるのと同様だ。

もちろん、それぞれの状況によって何を選択するかに主体性は関わってくるし、どの選択を行うかによって政治的インパクトが異なるのは確かだが、全ての主体は、既に何らかの権力関係に巻き込まれているし、その政治性からは逃れられない。

それは、もっと根源的なレベルでもそうである。

例えば、僕は今エルサレムというところにいるのだが、例えば僕は生きるために食べ物を買い、飲み食いをしている。その消費という行為も、そのお金が、イスラエル経済を回し、回りまわってイスラエルパレスチナの紛争に使われている可能性を考慮すれば、僕はそれを望んでいないものの、望むと望まざるとに拘わらず既に充分に政治的影響力を持っている。

他にも「同性愛に悩んで苦しんだ18歳の僕が、自殺という選択をしなかった」ということにも何らかの政治性はあり、「いまブログを書いている」、ひいては「生きている」ということは常に何らかの政治性を帯びている。このことを考えれば、あらゆる行為が、既にある政治性から逃れられない、ということは容易に想像がつくだろう。だからこそ、啓発活動であったり、教育活動を通じてその政治性に対し、せめて自覚的であることが求められているのである。

 

そう考えるならば、「パレードを主催すること」や「パレードに参加すること」、あるいは「パレードに参加しないこと」、「パレードにアクセスし、参加できること」その他色んな事が政治的な行為ではないと考えるのは難しい。

 

【左派の思想を持ち込む、ということ?】

このように考えると、東京レインボープライドという場は、政治的であることを余儀なくされている。であるならば、翻って「あらゆる政治的主張でも持ち込んでいい」という結論になりはしないだろうか。

そう考えたところで、「いやいやいや」と考えている読者も多いかもしれない。このロジックを突き詰めると、東京レインボープライドは「性的少数者の差別と偏見を解消する」という当初の名目を失い、「安倍やめろ」や「天皇制反対」といった「関係の無い」政治的主張に「乗っ取られてしまうのではないか」と考えるのも当然の帰結である。

 

イベントの主旨がずれてしまうことによって本来の「性的少数者の差別と偏見を解消する」という目的が達成されないことの問題は、それぞれ個人で考えるべきであり、僕個人が「具体的にこうするべきだ」と言える立場ではないと感じている。

 

しかし、「安倍やめろ」や「天皇制反対」といった「左派思想を持ち込むこと」が「性的少数者の差別と偏見を解消する」ことと結びつかないと考えるのは無理がある。なぜなら、「性的少数者の差別と偏見を解消する」という要求自体が、既に左派思想の一部だからである。

 

日本をはじめとした多くの国で実践されている「性的少数者の差別と偏見を解消する」という要求は、基本的人権の尊重という1789年のフランス人権宣言を基にした西欧的価値観を元にしている。語弊を恐れずに言えば、「性的少数者は性的多数派と変わらない人間であり、既に存在する差別や偏見という人権侵害から解放されねばならない。」というロジックである。つまり、性的少数者の差別や偏見を解消する運動は、少なくとも「人権は守られなければならない」という大きな枠組みの上に成り立ち、そこから逃れられないと一般的に考えられている。(もし、僕が不勉強で、全く異なる他のロジックを用いて主張を行ってきた団体があれば教えてほしい)

 

そして、この「人権」という概念に則る限り、あらゆる形態の差別に反対する必然性がある。なぜなら、「性的少数者だけが人権を享受できればよい」という考えは、それ自体がすでに他の形態の差別に対する差別すなわち人権侵害であるからである。つまり、性的少数者に対する差別に反対するためには、女性や人種、国籍、宗教、障害といったあらゆる形態の差別に反対するという前提がない限り、その思想的基盤が蓋然性を失ってしまい、自らの主張が内側から瓦解してしまうのである。

その意味では、「性的少数者の差別と偏見を解消する」という主張は、「人権」という思想的支柱を寄りどころにしている限り、すでに左派的な思想でなければ存在しえないということになる。

それを考慮すると、「安倍やめろ」や「天皇制反対」という要求は、少なくとも安倍晋三性的少数者の人権保護とは大きく異なる思想を基にした政治家であること、「天皇制」が出自という形態の差別に相当し、また戸籍制度を考えれば性的少数者にとっても重大な課題になることを考えれば、思想的にはつながっていると考えるのが妥当ではないだろうか。

 

個人的な意見としては、パレードに対しどんな政治的主張を持ち込むか/持ち込まないかは、個人の意見の分かれるところであるし、それを批判することはむしろ喜ばしいことであると考えている。ただ、それを批判する際に「政治利用をするな」の語を使用するのは、あまりにも実態からかけ離れているということを強調したかったのだ。

 

僕はツイッター上の言説を目にし、自分の考えとあまりにもかけ離れていることが気になったことから筆を進めたまでであって、ツイッター上の言説を一方的に断罪したり、はたまた具体的な解決策を講じたり提案したりするものではない。それは、「パレードは誰のものか」という簡単には答えの出ない古くからの問いの一部であるという自覚からであり、また一方で、自分の知識量のなさ、未熟さが原因である。ただ、それでも、異なる立場の人々に対し、このブログを期に、議論を喚起する一助になれたら幸いである。