ユダヤ研究者米国派遣報告

3月3日~10日までの8日間の間、外務省のユダヤ研究者派遣プログラムKAKEHASHI Projectによって米国のニュー・ヨークとワシントンD.C.の二か所を訪問した。ブログを更新するのは実に半年以上ぶりだが、筆者のメモ代わりに書き記しておきたいと思う。先に述べておくが、筆者は米国のユダヤ人が専門ではない。そのため、間違いや解釈の問題が含まれている可能性が十分にあるということである。そのため、言うまでもないが、是非間違いや意見等があればぜひ指摘いただきたい。そうした指摘は、今後の筆者のさらなる考察の糧ともなる貴重なものだと考えている。

ちなみに、分量がかなり多くなってしまったので、目次を示しておいた。

 

目次

渡航まで】

【ゲイ・シナゴーグからCongregation of Beth Simchat Torahまで】

ホロコースト博物館とハンナ・アレント

【若者のカップリング・Shir Delight】

 

渡航まで】

このプログラムには、「ユダヤ研究者」の枠で紹介をいただいた。筆者はそもそも自分の関心が何研究に属するかという枠組みに何ら必要性も有用性も感じておらず、かろうじて「クィア研究」、「イスラエルパレスチナ研究」あるいは「中東研究」というカテゴリーには多少のなじみを感じてはいたが、「ユダヤ研究者」と自認したことは残念ながら一度もない。ではなぜこんなことを書くかというと、そもそものプログラムと経緯の説明に必要だからというのもさることながら、詳細は本ブログでは割愛するが、「ユダヤ研究者」と括られた研究者たちとの微妙な立場の違いも、このプログラムを通じて感じられたことの一つであるからである。

 

今回の渡航に関して、新型コロナウィルスの影響を受け、渡航を予定していた2名が直前で渡航を断念し、最終的な参加者は7名となった。ニュー・ヨーク市は3月13日に500人以上集まる集会を禁止し、19日には外出禁止令を出すかもしれないという、新型コロナウィルスの影響が広がる中で、今回のプログラムの実施は本当にギリギリであった。そのため、今回のメモは、残念ながら参加を断念した参加者の方のためにも書き記しておきたいという意図もある。

 

 しかし、事情を明かしてしまえば、今回ブログを書いている主な理由は、このプログラムから「SNS等で積極的に対外発信」をするように要請されているからである。この要請は、日本語で米国の文化等を発信する、もしくは英語で日本の文化等を発信するというものだ。なぜ言語によって区分けがされ、単一言語が想定されているのか、あるいは、なぜ筆者がまるで日本国の大使となり自国の「良いところ」をアピールしなければならないのかなど、このいかにも官製の要請に対して、思うところがないわけではない。そもそも、主観的にも客観的にも現在の日本国に特段「良いところ」があると思ったことがない。

それでもなお、ブログを更新しているのは、一つには、米国の文化等を発信するという「成果作り」に必ずしも賛同できないものの、一人の研究者として派遣された身として、発信する社会的要請と使命はあるだろうと考えているからである。その社会的使命と要請というのは、何も「派遣元の国家・社会の役に立たなければならない」という意味ではない。むしろ、特定の過程を通じてプログラムに選ばれた研究者という時点で、制度を通じた排除の論理に成り立っており(例えば筆者が大学という機関で研究を行っていなかったら、このようなプログラムに参加できただろうか?もっと言えば、国籍や言語的能力、健常な身体であることなど、筆者の意識しないところでの多くの障壁を乗り越えていなかったら?といった風に)、そういった「正規課程の学生、すなわち制度化された機関の恩恵を受ける研究者」という特権的な立場をどのように利用し、そういった構造を「簒奪」する糸口とする、という意味での社会的使命と要請である。

 

上記のような筆者の執筆動機に照らして考えると、この派遣が全く意味のないものだったかと言われればそうではなかった。筆者と近い問題関心や領域の日本の研究者と意見交換や交流し自身の思考様式や立場を改めて考える機会となったり、必ずしも米国を対象としていない研究者が、自身のイスラエルという地域の特殊性と共通性を考える契機となったほか、後述するように、ジェンダーセクシュアリティを専門とする者にとって重要な示唆を与える訪問先もあった。その訪問を実現してくれたのは主にツアーを組織していただいたイディッシュ語研究をされている鴨志田聡子さん、リトアニア反ユダヤ主義の研究をされている重松尚さんのお二人の尽力のおかげである。

 

【ゲイ・シナゴーグからCongregation of Beth Simchat Torahまで】

 「保井さん、LGBTよろしくね」と念を押されて、筆者の専門に近い訪問先として選ばれたのがCongregation of Beth Simchat Torahという団体である。Congregationというのは宗教的な人々の集まりのことを指す用語らしく、Beth Simchat Torahはヘブライ語でBeth(בית)は家や場所、Simchat(שמחת)は喜び、Torah(תורה)は聖書(Simchat Torahはユダヤ教の祝日の名前でもある)のことを指す。そのため、直訳すれば「聖書の喜びの集会所」であるが、団体のこの名前はほとんど何も説明していないに等しい。しかし、1973年にこの団体が設立された当初は、「Gay Synagogue」であり、そちらのほうが、どのような団体かは想像しやすい。

 

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団体の方たちと。対応していただいたのは正統派と改革派のラビ(ユダヤ教の宗教司祭)の方であった。

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ジェンダー分けされていないトイレの中の側壁には、団体の歴史が。

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初の公認ラビ。




―歴史

この団体は、1973年にニュー・ヨーク市のユダヤ人の性的少数者当事者が主体となり設立された。設立当初は当事者が安心して信仰を実践するためのコミュニティ活動、ピア・サポート(=自助)団体であった。この1973年という年は、米国での性的少数者をめぐる運動の歴史を考えると、ゲイ・リベレーションの流れの初期にあたると言え、ニュー・ヨークでの運動の活発化の中で活動を開始したものと考えられる。

 

 活動初期、このゲイ・シナゴーグは公認ラビ(ユダヤ教の宗教司祭)を持っておらず、ユダヤ教のどの派からも認められてはいなかった。しかし、この団体は当事者による週に一度の祈りなどのコミュニティとしての機能を志向していたため、実際は初期の活動においてラビが不在であることは特に大きく問題にはならなかったという。しかし、この状況が一変したのが、1980年代後半から始まるHIV/AIDSの登場と流行である。このAIDS危機は、同性愛者への非常に強い嫌悪感を伴い、性的少数者を取り巻く生活に大きな影響を与えたが、この団体にはもっと「直接的な」影響を与えた。AIDS危機によって、同性愛者のユダヤ人の死者の増加したことである。これまで、この団体は日常でのお祈りを中心としたコミュニティ活動を行っていたが、ユダヤ人同性愛者のHIV/AIDSによる犠牲者が増加したことによって、冠婚葬祭を行うために公認ラビが必要であることを痛感することになったという。当時同性愛やトランスジェンダーに対する偏見が強固で、この団体へのユダヤ教コミュニティからの承認を得るのは依然として難しかったが、1992年にレズビアン当事者であることを公表している公認ラビを初めて迎えることとなった。

 

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HIV/AIDSで亡くなったユダヤ人当事者の追悼モニュメント

―運営

 この団体の運営は、支援者による寄付によって成り立っている。

団体の寄付者の中には、

ハーヴェイ・ミルク

1977年にゲイであることを公表してカリフォルニア州サンフランシスコ市議員選挙に当選し、世界で初めてゲイであることを公表して当選した公人となった。ユダヤ系。

 

ジュディ・ガーランド

ゲイ・アイコンとして男性同性愛者らの間で絶大な人気があり、「オズの魔法使い」の彼女の役にちなんで作られた「Friend of Dorothy」という言葉は、自分が当事者であることを示す合言葉として知られていたほどである。1969年に亡くなり、その哀悼パーティをストーンウォール・インというゲイバーで行っていたところ、警察のがさ入れが入り、それに抵抗したことが世界的に有名なストーンウォール事件のきっかけになった。

 

・イツハク・ラビン

1992年から1995年にイスラエル国首相を務め、中東和平に関するオスロ合意や、職場における性的指向に基づく差別禁止法や事実婚レベルでの同性カップルの権利を認めた非登録居住制度を制定させた。

 

などがおり、団体の記念碑にその名前が載っている。

 

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左側にHarvey MilkとJudy Garland、右側にはItzhak Rabinの名前が。



ユダヤ×性的少数者

 訪問に対応していただいた二人のラビの方によると、ユダヤ人であること及びユダヤ教性的少数者であるという2つのことがらに関し、割礼と母系という個別の問題があるという。

 

・割礼

男性のユダヤ教のコミュニティにユダヤ教徒として承認されるには、割礼を経ている必要がある。しかし、FTMトランスジェンダーの場合、必ずしも身体の改変を伴っていない男性を、「ユダヤ教徒として男性と認めるか」というユダヤ教規定上の問題が存在する。

 

・母系

ユダヤ教は、上記に挙げた割礼を伴う特定の改宗の手続きのほかに、血統によってユダヤ人となるという規定がある。「母親がユダヤ人であれば子供もユダヤ人である」というものだ。しかし、子供を持っているMTFトランスジェンダーなどの場合、「母親」が「父親」となる場合、その子供がユダヤ人として規定されるかどうか、という神学上の問題が存在する。

 

以上の二点をラビの方に説明いただいた。しかし、これらの問題は、あくまでも神学上の問題であって、ユダヤ教そのものには熱心でないユダヤ人当事者も多いことを考えると、必ずしもユダヤ人当事者が直面する実際上の問題と言えるわけではない。こうした問題意識は教義に忠実なラビの視点から見たものとも言えるだろう。その他に、ユダヤ人当事者が抱える固有の文脈に関して質問したところ、ニュー・ヨークの性的少数者は当事者コミュニティや主流社会内部での反ユダヤ主義や白人至上主義の脅威に直面することを教えてくれた。

 

ホロコースト博物館とハンナ・アレント

 今回の訪問中、二つのホロコースト博物館を訪問することができた。当初の予定ではワシントンD.C.のUnited States Holocaust Memorial Museumだけの訪問の予定だったが、新型コロナウィルスの影響で当初の訪問先がキャンセルとなったことで、ニュー・ヨークで自由時間ができたため、ニュー・ヨークにもあるThe Museum of Jewish Heritage: A Living Memorial to the Holocaustも筆者はその時間を利用して訪れることとした。

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ニュー・ヨークにあるMuseum of Jewish Heritage: A Living Memorial to the Holocaust



 

それだけ元々筆者はホロコースト博物館を見たいと思っていたのだが、ホロコースト博物館に筆者が関心を寄せるのは、以下の二点である。

1.ホロコーストという経験とその語りが、現在のイスラエルのナショナルな言説に影響を与え続けているため。

2.ホロコーストと並行して行われたナチスによる同性愛者への迫害が、どのようにホロコーストの経験と語りに接続するかを探るため。

 

さらに、ユダヤ系でもあり、ジェンダーセクシュアリティに関する理論で著名なジュディス・バトラーは、イスラエル反ユダヤ主義の問題に関して、その著書でカリフォルニア州ロサンゼルスにあるMuseum of Toleranceというホロコースト博物館を批判していることもあり、筆者はホロコーストに関する博物館を訪問することをかねてより望んでいた。ちなみに、筆者は以前イスラエルエルサレム市にあるヤド・ヴァシェム(יד ושם)というホロコースト博物館を訪れたことがあるが、それ以外のホロコースト博物館を訪れるのは初めてである。

 

結論から言うと、ニュー・ヨークのホロコースト博物館もワシントンD.C.ホロコースト博物館も、特段目立った特徴といえるものは見当たらなかった(昨年カリフォルニアの派遣プログラムに参加した参加者の方からの話によると、カリフォルニア州にある先述のMuseum of Toleranceは、その博物館のつくりからしてかなり特殊であったとのことだった)。

二つの博物館は、通史的な展示から、殺戮の具体的な流れ、生存者の証言、遺品の展示に至るなどあまり顕著な違いがあったわけではない。ちなみに、どちらの博物館にも、ユダヤ人以外への迫害の欄で同性愛者に関するものがあった。

 

ワシントンのUnited States Holocaust Memorial Museumでは、施設の方にガイドをしていただいたが、その方によると、ワシントンのホロコースト博物館は、国によって運営されていることもあり、「教育に力を入れている」のが特徴、とのことであった。ちなみに、イスラエルホロコースト博物館であるヤド・ヴァシェムとの関係性はないとのことだった。確かに、ワシントンのホロコースト博物館では、表に人権に関する記念碑や、初代大統領のジョージ・ワシントンの言葉が展示されていたり、アメリカ人のホロコーストとの関連に関する特別展示があるなど、人権といった普遍的価値観に訴えるような米国市民一般に向けたものとなっている。

 

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United States Holocaust Memorial Museumの外に置かれていた碑。人権や人間の尊厳への言及がある。

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館内にはアメリカ合衆国独立宣言も。



しかし、これらの二つの博物館を訪問したことによって、むしろイスラエルホロコースト博物館であるヤド・ヴァシェムの特徴が浮かび上がってきた。ヤド・ヴァシェムは二つの博物館と全体の流れなど大きな部分で異なるわけではない。しかし、ヤド・ヴァシェムは、イスラエルが建国直後に国の威信をかけて設立に取り組んだこともあり、被害者の遺品数と生存者の証言は米国の二つの博物館に比して圧倒的である。

 

 

こうした「物質的な」差異のほかに、筆者がヤド・ヴァシェムを訪れた時に非常に奇妙に感じたのは、博物館の後半部分でイスラエル国歌である「ハティクヴァ」が流れることである。もちろん今回訪れた米国の二つの博物館では流れておらず、筆者にとってヤド・ヴァシェムの特殊性を改めて感じさせることとなった。ハティクヴァは1878年に作られ、シオニスト団体によってその歌に採用された曲で、歌詞は以下のとおりである。

 

心が内にある限り                                                                 כל עוד בלבב פנימה

ユダヤの精神は穏やか                                                                 נפש יהודי הומיה

東のはてまで前へ進む                                                           ולפאתי מזרח קדימה

その目はシオンに向かって                                                             עין לציון צופיה

われらの希望はまだ失われず                                                 עוד לא אבדה תקוותנו

二千年の希望                                                                  התקווה בת שנות אלפיים

われらの祖国にて自由の民となるという                          להיות עם חופשי בארצנו

シオンの祖国、エルサレム                                                        ארץ ציון וירושלים

 

このように、この国歌はユダヤ人の祖国を作るというシオニズムの考え方を表しているが、それ自体は、ホロコーストと直接関係がない。にもかかわらず、ホロコースト博物館でこの曲が流れるということは、ホロコーストシオニズムが分かちがたい不可分の関係だ、という印象を来場者に与える効果がある。

 

 筆者が今回ホロコースト博物館を二か所訪問するにあたり、一つ注視していた点がある。それは、ナチスとソヴィエトの体制について書いた「全体主義の起原」で有名になった政治哲学者のハンナ・アレントの博物館での扱われ方である。

 

なぜハンナ・アレントを筆者が注目したかと言われれば、ハンナ・アレント自身がホロコーストを生き延び、ホロコーストに大きな影響を受けたユダヤ人で、さらに全体主義の起原という著作がホロコーストに直接かかわっているからというだけではなく、ハンナ・アレントが、アイヒマン裁判で大きな論争を引き起こしたからである。1960年、イスラエル諜報機関であるモサドは、ナチスの「ユダヤ人問題の最終解決」の責任者だったアドルフ・アイヒマンを潜伏先であるアルゼンチンで秘密裏に捕らえ、イスラエルに移送した。翌年1961年に、イスラエルエルサレムユダヤ人虐殺の人道の罪に関する特別法廷が開かれ、結果的にアイヒマンは有罪を宣告され、イスラエルで唯一の事例となる死刑を宣告された。アレントはこれを傍聴し、傍聴記録として「エルサレムアイヒマン――悪の陳腐さについての報告」という題で『ザ・ニュー・ヨーカー』紙に連載を残した。「この裁判がさながら政治ショーのようであり、アイヒマンが極悪非道の人間などではなく、ただの気の小さい役人であったこと、彼を有罪にするのであれば、ナチスに協力したユダヤ人コミュニティの指導者も同様である」としたアレントの主張は当初から大きな論争を引き起こし、特にイスラエル人やシオニストから非常に強い反発を招いた。

 

このように、特にイスラエル国内ではアレントに対して嫌悪感がある。これほどホロコーストに密接なかかわりがあるにもかかわらず、ヤド・ヴァシェムには、筆者の見つけた限りアレントへの言及は一切なかった。特にホロコーストに人生を左右された著名な学者や政治家の写真が並べられているコーナーにおいても、アレントの写真や名前は存在しなかったのである。一方、今回訪れたワシントンD.C.ホロコースト博物館では、ホロコーストに人生を左右された著名な学者や政治家のブースでアレントの紹介があった。さらに、ニュー・ヨークにあるホロコースト博物館では、ホロコーストに人生を左右された著名な学者や政治家のブースでアレントの紹介があるだけでなく、アレントホロコーストに関する考えがビデオとして上映されており、アレントが特別重要な存在として紹介されていた。このように、アレントには、ヤド・ヴァシェムでは言及がなく、ワシントンではほかの著名人と同等の扱いがされ、ニュー・ヨークでは特別の注意が払われており、三つの博物館でのアレントの扱われ方は、それぞれ対照的であった。

 

 この対照的な扱われ方は、アレントシオニズムに批判的であり続けたという立場から、イスラエルにあるヤド・ヴァシェムではアレントに対して言及するのに忌避感があったのかもしれない。逆にアレントを大きく取り扱っていたニュー・ヨークのホロコースト博物館の場合は、ニュー・ヨークという場所を考えた時に、アレントが『ザ・ニュー・ヨーカー』紙に寄稿したことが論争の始まりだったことや、アレントがニュー・ヨークを活動拠点にしていた経歴があること、さらに非シオニストユダヤ人も多くいることから、アレントをある程度重要視している土地柄があることが推察される。

 

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Museum of Jewish Heritage: A Living Memorial to the Holocaustでは、アレントの対談が上映されていた。

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United States Holocaust Memorial Museumでは、ホロコーストを生き延びた哲学者の一人として紹介。

【若者のカップリング・Shir Delight】

ワシントンD.C.では、訪問先の一つに、Adas Israel Congregationという保守派のユダヤ教コミュニティのShir Delightというイベントに参加した。このイベントは、安息日の前の祭り、カバラト・シャバト(קבלת שבת)を若者向けにカジュアルにしたようなもので、雰囲気も非常にアットホームな印象を受けた。

 

 イベントの参加者らは、カジュアルなレセプションで飲食をした後、会堂での聖書の音読・朗誦の時間があり、そのあと、ホールのようなところで食事をするという流れであった。全体として宗教的なユダヤ人ばかりかと思えば必ずしもそうではなく、キッパ(ユダヤ人のかぶる帽子)もかぶっている男性も多くはなかったし、聖書の朗誦の時も、聖書も覚えていない、ヘブライ語が読めない人もちらほらいた。

 

 ユダヤ人の若者がここに来る動機が、必ずしも宗教的なものではないならば、いったいこれらの人々はどうしてこの集まりに参加しているのだろうか。ツアー・コーディネーターの方の話によれば、どうやらこの集まりは、「出会いの場」になっているそうだ。

 

 筆者の感覚が疎いだけの可能性もあるが、イスラエルではシナゴーグといったユダヤ教コミュニティがこのような機能を果たしているのはあまり聞いたことがない。この二つの差が何かと考えると、イスラエルではユダヤ人であることが多数派であり「当たり前」であるため、パートナーを探したり、結婚相手を探す際に特別な場を求める必要がない。一方、米国では、ユダヤ人は少数派であるため、ユダヤ人の学校に行ったり、こうしたコミュニティに顔を出さない限りは、ユダヤ人同士での出会いは多くない。そのため、特に将来のパートナーを探すといった必要性に対して、シナゴーグ等のユダヤ人コミュニティが出会いの場としての機能を果たしていることは、十分にありうる。

 

参加者の若者たちに参加の動機を聞く機会はなかったが、このような場の機能を考えることで、もしかしたらユダヤ人コミュニティの置かれている立場を知る一つのカギとなるかもしれない。さらに、ジェンダーセクシュアリティに関心を持っているものとしては、このような場では、どのような人がより重要だと思われたり、「モテ」たりするのか、そこにはどのような権力関係が働くのか、そしてそこにはユダヤ人コミュニティの特殊性はあるのか、等さらに調べてみたいとも思った。

 

 今回の訪問は、ユダヤ人コミュニティやユダヤ人をめぐる状況の詳細を、腰を据えて観察するには、必ずしもその時間が十分あったわけではない。しかし、イスラエルの状況だけでなく、米国のユダヤ人の状況や、そのイスラエルとの関係を知るきっかけとなったという意味では、筆者にとって充実した渡航となった。