「当事者が差別をなくす行動を求めていない」ということは、その行動の必要がないことを意味するのか?

久しぶりのブログ更新である。おそらく一年ぶりぐらいだ。ブログなんて書いてないで早く博論を書けと言う言葉が聞こえてきそうである。全くおっしゃるとおりである。異論はない。このブログが指導教官に見つからないことを祈るばかりである。

 

冗談はさておき、Twitter上で、

 

「数年前からLGBTQをサポートする仕事任せて貰っているのだけど、”差別を無くそうぜ”という行動自体は、実はあまり当事者の方は求めてないように感じています。

法整備が整った後の社会では、LGBTQの方々がより区分された世の中になってしまいそうで、少し不安です。」

 

という旨のツイートが回ってきた。僕も賛同している「LGBTQがいじめ・差別から守られる法律を求める緊急声明」に対する声のようだ。僕もご多分に漏れず一読した時違和感があってすぐに反論したい気持ちになったのだが、前半の部分は、考えれば考えるだけ、複雑で難しい問題のようにも思えて、ちょっと立ち止まって考えてみたいと思うようになった。

 

まず、僕は単なる一端の大学院生で、Twitter上でこのような本件に関してTwitterで直接言及されたわけではないので、「勝手に変なやつがつっかかってきた」と言われればそこまでである。特に、個人的にはTwitterというプラットフォームは個々人によって使い方があまりにも異なっていて、使いづらいと考えているので、尚更そう思われたら申し訳ない。なので、もしその場合は全く無視してもらって構わないし、場合によっては喜んで削除に応じる。

 

その上で考えたいのが、今回のタイトル『「当事者が差別をなくす行動を求めていない」ということは、その行動の必要がないことを意味するのか?』という話だ。

 

上述のツイートは、かなり好意的に解釈すれば、わからないこともない。つまり、この方は、差別がないと言っているわけではないのだ。あくまで、「その行動を求めていない」ということに主眼が置かれている。

 

例えば、僕は普段ゲイのバスケットボールのチームに入って時々運動をしているのだが、同年代の自分以外のメンバーの多くは、いわゆる政治的な問題にほとんど関心を見せない「ノンポリ」の人たちばかりだ。そういう友人たちと絡んでいると、そういう人たちがそういった行動を「求めていない」というのはよくわかる。

 

ただ、その友人たちが自分のセクシュアリティで困っていないかと言われると、どうやらそうではないようだ。例えば、「小中学校のころ、オカマっぽいと言われていじめられた」とか、「父親にカミングアウトしたら(冗談ではなく命の危機を感じるという意味で)殺されるから出来ない」という話をしてくれた子もいた。もちろん普段は明るくバスケをしていたり、一緒に飲んでいるだけなので、そんな時にそんな話はしてくれない。そういう「暗い話」は場がシラケるからである。本当に仲良くなった時に、心を許した時にだけ話してくれる。

 

他にも、バスケットとは関係ないが、「自分のセクシュアリティが親にばれて家を追い出された」、「親からの理解が得られず、追い出された結果、生活保護を受けて暮らしている」など話してくれた友達もいた。

 

つまり、「差別をなくす行動」を求めていようがいまいが、差別というのは無慈悲にも当事者に降りかかってきているようだ。 それでもこれらの僕の友人らの全員が「差別がなくなるための行動」に積極的に参加したいと思っているわけではない。どこか遠い存在として見ているところがあるのだ。なぜだろうか。

 

その一つの理由は、差別をめぐる複雑さだろう。差別というのは、「はーい、私が差別でーす」と言って現れてくるわけではない。差別というのは、様々な形態の結果としてあらわれてくる。それが暴力だったり、暴言だったりしたときにはわかりやすいが、からかい、あるいは身近な人からの協力を得られないことによる日常的なストレス、鬱、精神的な不安定、特定の病気へのかかりやすさ、薬物などの依存、自死など、差別は様々な形で現れてくる。

 

しかも厄介なことに、そうした「結果」は必ずしも当事者全員が経験するわけではない。ある人は幸運なことに身近な人に協力者が得られたり、またある人は孤独感を抱えたまま過ごすことになったりする。その色々な結果の混ざり合わせとして「異性愛者に比べて同性愛者は自死率が高い」などの統計的な不均衡として現れる。

そして、またある人は、それをはねのけるパーソナリティを身に着けたりして、「差別」を「差別」と思わないまま処世してゆく。

 

おそらくこのツイート主の方のもとにはそういう「幸運だった当事者」が声を寄せているのかもしれない。それはそれで、とても喜ばしいことだ。

 

ただ一方で、そういった声にならないまま、残念ながらジェンダーセクシュアリティが原因となって自死という選択をしてしまう当事者がいるのも事実だ。去年あたりに、とても仲が良かったわけではないけれども何度か話したことのある、LGBTQの活動に関係していた当事者の一名が自死をしたとの知らせを受けた。仲が良かったわけではない自分は、その人の自死の原因を今でも知らないし、それは推し量るしかない。ただ、その人の声を誰かが聞く必要はなかったのだろうか、と立ち止まって考えることは今でもある。

 

差別は色々な結果となって現れると書いた。差別は「無知」となっても現れる。なぜなら絶えず苦しんでいる当事者の声はかき消されるからだ。そもそも「暗い話」はその場のTPOや「空気」にそぐわないからと、なかなか発言をする機会がないし、場合によっては、当事者の声が、例えば死んでしまうことによって物理的に聞こえなくなってしまうからだ。

 

僕は東京大学の当事者の集まりのサークルを運営をしたことがある。東大は8割が男子生徒なので、自然とゲイ・バイの学生が多くなる。ある日そこに、明らかにゲイ・バイではない当事者の学生が現れた。その人は、よそよそしそうにしながらあまり話の輪に入ることができず、最終的にはサークルにはあまり顔を出さなくなってしまった。後から考えるに、サークルの場ではその人のジェンダーセクシュアリティとは異なる人たちが優勢だったために、居心地の良さを感じられなかったのだと思われる。では、言葉にはしなかったものの、その人は、サークルのような「居場所」を必要としていなかったのか。その人の「自分と同じ属性を持つ他の人とつながりたい」という希求や声は、なかったことになるのか。より多様なジェンダーセクシュアリティに向けた居場所づくりの必要はなかったのか。そうではないだろう。

 

さて、差別の帰結としての無知の話をした。その「無知」というのは、当事者も非当事者も関係がない。そのような経験をしている当事者であっても自分に降りかかった経験がよもや差別と結びついているなんて思わずに、「SOGI(性的指向及び性自認)に基づく差別は存在しない」と思っている人もいる。

 

僕は、珍しくも自分の家族にもカミングアウトを済ませたオープンなゲイだ。僕の場合は、ラッキーにもセクシュアリティが理由で例えば両親と不仲になって支援を受けられない等の経験をしたことはない。自分が高校生の頃はカミングアウトをするかどうかで文字通り死ぬほど悩んだが。

 

自分は父親が次男で家を継ぐプレッシャーがなかったとか、都市部の比較的リベラルな家庭に生まれたとか、そういった要因が重なってラッキーにもそういう状況にはなっていない。だが、当事者が、そういう意味での「ラッキー」かどうかによってその人生を左右されていいのだろうか。

 

僕はその不均衡さを是正する唯一の方法が、「制度の改変」であると思う。ここで言う制度というのは、単に法的なものだけではなく、家族などの社会の構造までを含めた広い意味だ。もし、これ以外に当事者らの生活を向上させる魔法のような力があるならどれだけよかっただろうか。そんな力があれば、「そんな声ばっかり挙げて、偽善者だ。」と言ったバスケットボールの友人に、社会の変化をあきらめさせずに済んだのかもしれない。

 

そういう友人たちに思うのは、「あなたが今生き抜いているのだって立派な運動の一部だよ」ということだ。なにも別に街頭に出てデモをしたり、声を上げるだけが運動ではない。もし社会がLGBTQに対して「死ね」と言ってくるのなら、生き続けることだって立派な抵抗だ。具体的な行動の中身に違いはあれど。

 

差別をなくすための行動は、僕にとっては非常に重要だと思っている。それは、無慈悲な現状を「もう無理だ」と投げ出してしまうのには、まだ自分にはあきらめきれない頑固さが残っているからかもしれない。まだあきらめられないから、まだあきらめたくないからである。